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    岩川光についての、連続エッセイ。まとめ。




    岩川光 @HikaruIwakawa 君のアルゼンチン渡航前特別企画『スペシャル・カルテット・ライブ』@絵本塾ホール。聴いてきました。岡部氏、鬼怒氏、佐藤氏。と岩川光君のケーナ。実は岩川君が東京を活動拠点として(そしてキムラが関東に来て)初めてライブを聴きに行った。

    強烈に思ったのは、 #岩川光 がケーナを吹く機械のようになっていたという事。もちろん彼は機械ではない。そしてケーナは単なる木管だ。だが彼が肉と血と全身の筋肉の律動と息とを捧げて(直喩的にも暗喩的にも命を差し出して=無生物的な何者かに零落して)ケーナを生物のような何者かにしていた。

    ライブのあいだ、演奏が響く間、私は四人の音楽に持って行かれていた。特別に素晴らしい音楽をライブで聴いたときに起こる、あの持って行かれ方だった。

    訓練された耳も素養もない私にとっても、そのような特別な音楽なんだ、と言うことが分かった。同時に彼の体にある種の不吉さを持った。

    その素晴らしい演奏の間、見る間に両耳が紅潮し、そのうちだんだんと目の周囲が白くなる。技巧の一つ一つは勿論私には追い味わう事は出来ないのだが、彼の指、舌、肺、横隔膜、肺と筋肉の連動や内臓と細胞の酷使が彼の技巧の背後に有ることは何となく分かる。

    ケーナは空隙だけの楽器だ。中身のない中空の管に穴という無いを穿ち、吹き口という欠如を削り取る。彼はケーナを吹くに当たってその無いに自分を注ぎ込んでいる。彼の演奏が私に響いたのは、もしかしたら回復不能な何かを使っているのではないか。

    *******

    彼の肉体の<命>と<機械性>。
    ケーナの<無>と<存在>。
    それらの複雑な関与・連関が、紡ぎだす音楽。

    キムラの心に響いた何か、とは、結局のところ、その音楽自体と、音楽の姿の写し絵だったのかもしれない。
    ライブ音楽の存在自体が<無>と<存在>の屹立する一時点のみ。
    その今だけに存在するということは、ひいては“今ここ”にある存在というあり方の写し絵だ。
    私たちは今にあり、過ぎればなく、今より前に存在できない。
    ライブ音楽もまたそのように。
    私たちもまたそのように。
    世界もまた、そのように。

    彼とケーナの混淆は、まさしくそんな在りようの一時点を差し出していると、キムラは思う。


    ******

    この時点で彼は日本にいない。
    キムラは、次に彼の演奏を聴くのを、とても楽しみにしている。

    元気で。
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    ケーナ

    いいですね、ケーナ^^
    学生の頃、一時期ケーナに凝ったことがあります。
    四六時中ケーナばかり吹いてました。
    あの音は日本人の心に響くんじゃないでしょうか。
    私が好きだったのはウニャ・ラモス。
    もうだいぶお年になってしまったと思いますが、パリ旅行中に偶然メトロに乗ってきて、私の隣に座ったのにすごく感激したのを覚えています。
    カタコトのスペイン語で一生懸命意思疎通を図ろうとしました。

    岩川光君のケーナ聴いてみたかったです。

    Re: ケーナ

    趣味が広いですね!
    と言うか、ケーナ吹いたことがある人ってのもなかなかいないですよ?

    岩川君のケーナは、毒ですよ!毒薬耳に甘し!
    びっくりします!笑

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